September 18, 2022
馬越 牧 牧師
ヨハネの手紙第1 5:13-21
先日、牧師の祈り会に参加して来ました。デトロイトの街の方まで運転していかなければいけなかったので、いつもお世話になっているミシガンの地元教会のトラビス先生と一緒の車に乗っていくことにしたんです。その日は私が運転していくことになったんですが、ちょうど交差点を曲った時に、「おーとおっと、ちょっと牧、ちゃんと周り見て運転しているのか?」と助手席に座っていたトラビス先生が言うんです。「今、左からくる車見てなかったでしょ。」って言うんです。すると私は、「いやいや、何言っているんですか。ちゃんと信号が、青信号だから大丈夫でしたよ。左見なくても、信号が青だったんだから。」そこで、トラビス先生が、ニヤリと怪しい表情をして、こう聞くんです。「まき、今なんていった?青信号?ブルーライトって言わなかったか?」すると私は。「そうですよ。ブルーライトでしたよ。ちゃんと見てましたから!」するとトラビス先生は、大声で笑って、「ブルーライトじゃなくて、英語だと、グリーンライトって言うんだぞ!お前は色がわからないのか!?」その時私は気がついたんですね。今まで私は40年近く、緑色の信号を青信号と呼んでいたということを。まるでブッダが悟りを開いたような気持ちになってしまいました。
普段生活していると、当たり前のことをあまり気にしないで生きている部分があると思うんです。この信号はね、緑色なんだよと指摘されないと気がつかない。それはこの聖書に書いてあるいくつかの真理にも当てはまることだと思うんですね。今日は第一ヨハネの5章を開いてみたいと思うんですが、そこでヨハネがこんなことを書いているんです。
1John 5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
ヨハネはここでこの手紙をそもそも書いた理由を説明しているんです。ある意味で、この手紙の総締めをしてる。それは「あなたがたが永遠のいのちを持っている」と言うことをわからせるためだよと言っているんです。それを、どんな人に向かって語っているかと言うと、教会に始めてきましたという人ではなくて、「神の御子の名を信じているあなたがたに対して」と言っているので、すでにイエスキリストを信じている人々に話しているんですね。
イエスキリストの蘇りをすでに信じている人であっても、私はもう何十年も教会言っていますみたいな人であっても、「イエスを信じた結果私たちが永遠の命を持っているんだよ」と言う「当たり前の真理」を指摘されないといけないと言うことですね。
永遠の命というのは、なんか死んだらもらえるプレゼントのようなイメージがあるかもしれません。しかし、聖書のいう永遠の命というのは、「いずれもしかしたらもらえるかもしれない命」ではなくて、イエスキリストを信じた瞬間にもらえる神様からくる豊かな命のことを指すんです。よってヨハネはここで現在形を使っています。「今日、今あなたがたはすでに永遠の命を持っているんだよ、今あなたは最高のプレゼントである永遠の命を授かっているんだよ」と言っている、それをあなたが忘れないように、この手紙を私はそもそも書いたんだよとヨハネは言っているんです。よって、私たちに今日投げかけられている質問は、その永遠の命がが私たちの日々の生活に現れていますかと言うことです。
時に私たちはイエスキリストを信じていても、日々のたくさんの課題、悩み、周りにいる難しい人、職場の上司、そんな悩みだけに目が行ってしまって、神様から喜びがあまり感じられない日々を送ってしまうことがあります。
天の父なる神様が私たちに与えてくださった目的を意識して暮らすよりも、自分の利益だけを意識して暮らしてしまうことがある。または、教会で奉仕してるんだけど、もう疲れたと、なんで私がこんなことをやらないといけなのと被害妄想に暮れてしまう。
先日、光シティのイベントをした時にある人に助けてもらったことがあるんです。その人は、アメリカ人で、とてもクラフトが上手な人なんですね。イベントが終わった後に、その泣いていたんです。なんで泣いてるの?相当奉仕が嫌だったのか?と思いきや、聞いてみると、こんな私が役に立つなんて思っていませんでした。今まで、自分のクラフトのギフトを神様のために使ったことがなかったけど、今回それができて本当に良かったと言って、喜びで泣いていたんですね。
永遠の命が溢れている人は、神様のために喜びの涙を流せる人です。皆さんはどうでしょうか?神様が私たちに与えてくださった永遠の命からくる活力が普段の生活に現れていますでしょうか?そんなことで今日は、どうやったら、私たちがすでに永遠の命を持っていると言う当たり前の真実を覚えて日々生活できるかと質問を考えていきましょう。
第一ヨハネの5章の14節からピックアップしていきましょう。
14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
ヨハネは、あなたは永遠の命をすでに持っているんだよと前置きした上で、すぐに「祈り」について書いています。私たちに与えられた「永遠の命」に溢れた生活をするには、まず祈りが必要だよと言っているんですね。
祈りっていうのは神様との会話ですよね。人間のどんな関係でも会話がないと、だんだんとその関係が薄れて行ってしまう。会社から帰って来て、「おかえりー」と言って、すぐに部屋に閉じこもって、寝る前に「おやすみー」とだけしか言わない夫婦は、当然愛が廃れていく。
それと同じで、神様との会話を普段から持っていないと、神様との関係が薄れて行ってしまう。日曜日にこんにちはーと言って、家に帰って、月曜日から土曜日まで何も神様のことを思わないで、また今度の日曜日にこんにちはーと、そんな関係を続けていたら、当然永遠の命から来る活力、活気溢れる日々が送れるわけがないんです。
先日、昔の日記を読んでいたのですが、3年ぐらい前の記事に娘の麗歌が人形をなくしたことが書いてありました。麗歌が大事にしていた人形がなくなってしまって泣いていたので、私は祈ってみたのと聞きました。ふとどこかにいなくなったと思ったら、ドアの反対側に隠れて一人祈っていました。そのすぐ後に、うちの奥さんが麗歌に「バックの中はみたの?」と聞くんですね。それで麗歌がバッグを開けると、人形があったんです。2019年12月12日のことです。麗歌が初めて祈りが聞かれた日です。子供達に全知全能かつ善良なる神について一番効果的に教えてあげることができるのはそれは子供たちに祈らせることですね。実は祈りについていうと、大人もそんなに変わらないんです。私たちも日々祈りを通じて、神様が生きているということを体験していかないといけない。
14節の最後のところにある、「確信」という言葉を見てください。神に対する「確信」という表現が使われていますが、ここで使われている確信という言葉は、自分の応援するスポーツチームが今年こそ優勝するとかいう確信ではなく、または今年こそ10キロ痩せて見せるとかそういう確信でもなく、この確信という言葉はギリシャ語のパレーシアという言葉で、会話を想定した確信なんですね。よって、人と「率直に話す、遠慮なしで話す」という意味合いの言葉なんです。「何事でも御心にかなう願いをするなら、神はその願い事を聞いてくださって、私たちと神の間の関係が率直になるよ!」と言っているんですね。
アメリカに来て面白いなあと思ったのが、牧師を名前で呼び捨てにするっていう文化ですね。韓国にいたので、韓国は牧師は必ず、誰々ボクサニムというって、必ず牧師先生と呼ぶのが普通なんですが、こっちは、みんな名前で呼び合っている(もちろん教会によるとは思うんですけどね)。先ほどのトラビス先生なんて呼ぶ人はいなくて、みんな呼び捨てでトラビス、hey Travis ってな感じで何のバリヤーもない感じなんです。日本人の私はそれがなかなか馴染めなくて、いつもpastor Travis。それが最初の5−6ヶ月続いたんです。で、自分だけpastor Travis って呼んでいることに、なんかこう壁を感じたので、ある時一緒ランチをした時、Travis って呼んでもいいですか?すると、なんでもいいよー。それでTravis って呼ぶことにしたら壁が取れたんですよね。
ヨハネは、私たちが創造主である神様とお祈りする時に、確信が持てるんだよと、率直になれるんだよと言っているんです。神の前に祈る時に、襟付きのシャツを来て、あー創造主なる神よ、御名をあがめさせたまえー、恐れ入りますが、今御前に近づいてお祈りを捧げてもよろしいでしょうか。というような、宗教じみた言葉遣いをする必要がない。もっと確信を持てと、率直になれと言っているんです。
この第一ヨハネを最初から最後まで読んでみるとですね、ヨハネが好んでよく使う表現っていうのがあるんです。それは、「あなたは神の子供だよ、あなたは神から生まれたんだよ」こう言った創造主を父として、私たちが父なる神の子供だよという表現がたくさん使われているんです。つまり、私たちが祈る時、父親の腕に飛び込むようにして、とうちゃんと、またやっちまったよ。と言ってフランクな形で、極めて率直な形で私たちは父なる神と話すことができるんです。
今日皆さんと天の父なる神様との関係を見た時に、そんな率直な関係がありますか?親しい関係がありますか?私たちの普段の生活に永遠の命の活力、活気がない理由の一つは、そんな祈りのライフスタイルを送っていないからです。
また、ヨハネはもう一つのことをこの同じ14節のところで言っています。
祈る時に、私たちは神の御心にかなう願いをしないといけないと言っているんです。時に私たちが祈っていて、神が私たちの祈りに聞いてくれないと思う時、私たちは混乱して、「なんで神様は私のことを聞いてくれないんですか?!そもそもそこにいるんですか?寝ているんですか?」と言って、神の存在自体を疑うようなことをしてしまう。また神様が永遠の命のギフトを私たちに与えてくださった、その約束自体も疑ってしまう。しかし、ここでヨハネは、神様があなたの祈りを聞いてないと思ってしまうのは、それはあなたが神の御心にかなう祈りを捧げてないからなんじゃないの?と言っているんです。
ヤコブ書と言う書簡の中にも、同じようなことを言っている箇所があります。James 4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。自分中心の祈り、自分の快楽のための祈りというのは、神は応えられないよということです。
しかし、神の御心にかなう祈りっていうのは、決して神様とポーカーをしないといけないという意味じゃないんです。神は今、フルハウスを狙っているのか、それともストレートフラッシュか、何を持っているんだ、と神が考えていることを当てようとする、そんなことをしろとヨハネはここで言っていないです。神の御心に叶う祈りっていうのは、神様と時間を過ごすことによって、自然と分かってくる。神がどんなことが喜ばれるか、何が喜ばれないか、神の言葉を毎日噛み締めて読んでいると、それが少しずつわかってくる。自然と神の御心に沿った祈りができるようになってくるんです。
うちの奥さんと結婚した当初の時、出張の帰りに空港で、香水をお土産に買って帰ったことがあるんです。まあー喜ぶかなーと思って。しかし、それを開けるやいなや、えー、これー。っていうようなリアクションでして、ちょっと好みのものじゃなかった。そもそもうちの奥さんはほとんど香水をしないです。後ほどその香水は中古で売られてしまいました。しかし、時間がたつに連れて、奥さんが何が喜ぶかがだんだんとわかってくるんです。そうか、ギフトカードが一番喜ぶんだ!という結論に達することができるんです。
神様と時間を過ごしていると、神様の御心がわかってくるので、祈りの効力がましてくる。大胆な祈りができるようになってくる。また自分のことを祈るよりも、他人のことを祈るようにもなる。困っていることの人を祈るようになる。また究極的には神の栄光が現れるように祈るようになる。
イエス様が私たちに祈り方を教えてくださった時にも、こう言われました。John 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
私たちが普段の生活で永遠の命の活力、活気が感じられないのは、それは、私たちがイエス様にブドウの枝がブドウの木に繋がっているように、イエス様に繋がっていないから、繋がっていないから祈りもしないし、祈ったとしても、祈り方が分からないからです。
クリスチャンになった後、私たちは、あー、教会で奉仕しないと行けないとか、困っている人を助けないと行けないとか、教会での自分の位置付け、重要性を何かすることで主張したいと思ってしまう。私はカレーが作れます!とか私は音楽ができます。でもそんなことよりも、まず私達が考えないと行けないのは、イエス様につながっているかということです。
私たちにとって、最も大事な使命は、ステージの上からメッセージを語ることでもない、賛美チームで賛美することでもない、困っている人を助けることでもない、神学書を読みあさって他の人と議論ができるようにすることでもない。最も大事なことは、まず私たちがイエス様につながるということです。
今日は当たり前の真理をおさらいしました。イエスキリストを信じているものは、永遠の命を持っています。それは将来なんとかすればもらえるかもしれないし、もらえないかもしれないような、不確定な約束ではありません。現在すでにそのプレゼントが与えられているんだよとイエス様は言っています。
今日自分たちの生活を見た時に、この永遠の命からくる喜びが溢れていますか?職場に置いてあなたは、イエスの光を放っていますか?家庭に喜びがありあすか?イエスの救いの喜びがあなたに溢れていますか?もしそれがなければ、今日、私たちの心を点検しようではありませんか。イエス様につながった日々を送りましょう。
今日、このメッセージを聞いた方の中で、永遠の命なんて、あんまり考えたことがない人がいるかもしれません。実は永遠の命というのは、聖書的にいうと、神様を信じていない人にも与えられるのです。イエスを信じていなくても、あなたは蘇り、永遠の命が与えられます。しかし、神を信じない人々に与えらえれる、永遠の命というのは、神様がいないところで過ごさなければ行けない命です。
それは喜びのない命です。平安のない命です。それは永遠の滅びと言ってもいいかもしれません。でも神様はあなたがそこに行かれることを望んでおられません。私はあなたのことを愛しているよと叫んでおられます!振り向いて私についてきなさいと叫んでおられます。
今日このメッセージを聞いて、イエスキリストからくる命が欲しいという方がいれば今どこでもいいので私と共に祈ってください。