Message by Pastor Bob Laning. 日本語訳:ベネフィール唯
ペテロ第一の手紙 5章1節〜11節
1そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。2あなたがたのうちにいる、神の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。3あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。4そうすれば、大牧者が現れる時に、あながたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。8身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠え猛る獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11どうか、神の御支配が世々限りなくありますように。アーメン。
〜先ず曲が流れます〜
さて、この曲をお聴きになられていかがでしたか。心が静まりましたか。安らぎましたか。きっと変動の激しい旋律に落ち着かない気持ちがしたんではないでしょうか。ペテロもこの手紙を書いたとき、迫害を受けているクリスチャンたちが混乱と思い煩いを抱えていることに気付いていました。今日はご一緒に7節の「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」という部分を集中的に見ていきたいと思います。ペテロはこの真理を自らの体験を通して知っていたので、心配事がある時どう対処すべきかを心得ていました。ペテロは迫害のただ中にいたクリスチャンたちの信仰を励まし、彼らが強められ耐え忍ぶことができるようにとこの手紙を書きました。彼が書き記した内容は、わたしたちにとっては初耳ではないかも知れませんが、改めて心に留める良い機会ですね。
いつもそうしていますが、今日も「神様は『愛』の観点から私たちに関わってくださる」ということを先ず強調したいと思います。わたしたちが愛されていると感じるか、感じないか、状況的にそう見えるか、見えないか、そうだ!と思えるかどうかに関わらず、主は主の民に愛をもって関わってくださる。それは初代クリスチャンの時代もそうでした。迫害に苦しむ彼らはきっと、愛されていると感じ辛かったでしょうけれど。
ペテロはこの手紙で終始、人生には不公平なことや困難がつきものだと認めています。イエス様は決して、クリスチャンたちにバラ色の人生を約束された訳ではありません。その代わりに、神の召された通りキリストに従って仕え抜く上で、どんな危険や逆境、苦しみや死に対してもしっかり備えるようにと忠告されています。
ペテロが手紙を宛てたクリスチャンたちは様々な迫害の中暮らしており、その状況は日々過酷化していました。政府、また社会からの宗教弾圧があり、彼らが混乱と不安を抱えていることに気付いたペテロは何とか彼らの信仰を励ましたかったのです。そこで、全ての思い煩いをイエス様に委ねるよう勧めました。政府や社会からの重圧も、不安や心配事も、日々のストレスも、将来に対する恐れも、家族や友だちの身の安全を案じる気持ちも全〜部ひっくるめて主に委ねるよう勧めたんですね。
ではここで、少しずつペテロが語っていることを紐解いていきましょう。初代クリスチャンたちが直面していたような政府からの弾圧とは違うにせよ、私たちもそれぞれにストレスを抱えて生活していますよね。なので、ここで語られている基礎は昔も今も同じです。聖書は今日を生きる私たちにも初代クリスチャンと同様、全ての思い煩いをイエス様に委ねるようにと教えています。彼らも、また私たちも、人生には苦しみがあり、理解出来ない事が多々起こるものだと分かっています。人間を理解するのもかなり大変です。皆さんもそう感じるときがありませんか。けれども人間関係の悩みや問題さえも、イエス様に丸投げして明け渡して良いんです。なぜならイエス様は、愛をもって私たちを心配してくださるお方だからです。
ここ1年半はコロナウイルスが世界中で猛威を振るいました。他にも様々な病気との闘いが日々あります。JWSも日本語礼拝の皆さんとどこで集会をもつべきか祈り話し合って来ました。ZOOMは素晴らしいですね。けれど直接顔を合わせて共に礼拝を捧げる恵みに勝るものはありません。アメリカのみならず、世界中が今混乱の中にあります。アメリカは政治的にも分裂しています。家族や友だちの仲が引き裂かれているケースもあれば、夫婦間に不和が生じ、子どもたちが非行に走り悩みの種になっているご家庭もあるでしょう。悪影響を与える友だちと連んだり、特にコロナ禍で全てがオンライン化されたため学校での成績が伸び悩んでいる子どもたちもいるでしょう。仕事や職場が心配の原因になる場合もありますよね。失業したり収入源を失ったり。職場での人間関係が上手くいかなかったり。難しい上司の元働かなければならなかったり。皆さんも誰かのことが心配で、もしくはある事が気がかりで眠れない夜を過ごされた経験をお持ちではないでしょうか。病気の中にはストレスと関係が深いものもありますよね。友だちや家族からの裏切りや嘘の証言に苦しむこともあります。イエス様はまさにその苦しみを体験されました。ヨハネの福音書13章21節に「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われました。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。』」とヨハネも記していますね。学生さんたちも、大学を卒業して就職先を見つけなければならないプレッシャーと戦っていますね。特に日本社会では「就職」は大きな悩みです。
これらの心配事は私たちを取り巻く環境にも、私たち自身にも影響を及ぼします。精神的にも肉体的にもストレスは健康に影響すると科学的に証明されていますね。
ダビデは詩篇38篇8節で「私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています」と書いています。またソロモンは箴言12章25節で「心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす」と語り、ダビデは再び詩篇31篇9〜10節で「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目は苛立ちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました」と言っています。(全ての病いがストレスによるものだと言っている訳ではありません。)
はい、ここまで見て来て、人生は不平等にも波瀾万丈にもなり得るし、困難に満ちている。ということがよ〜く分かりました。でもこれは今に始まった事ではありませんよね。そこでペテロは第6節で私たちに「へりくだるように」と教えています。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」と書いてありますね。ではこの事と、イエス様に全ての思い煩いを委ねるということはどう関連しているのでしょうか。
皆さんは、自分の人生は自分でどうにかできるとお考えになりますか。
私自身も含め、私たちは人生に起こるあらゆる問題を自分たちだけで解決できるでしょうか。出来ないんですよね。これを認めるには謙遜が必要です。私たちだけで全ての心配事を消化できないんです。家族や友だちは助っ人になってはくれますが、ときには彼らが心配の原因になったりもします。もしくは全くこちらの苦しみを理解してもらえないときもあるでしょう。私たちは全ての心配事をイエス様に明け渡すことで、自分たちにはもうお手上げです!私にはどうすることも出来ません!と認めることになります。神様は私たちを助けたいと願ってくださるし、助けることがお出来になる!と信じることが大事です。主は、私を理解してくださっているという事実を信じる必要があります。いかなる場合においても神様だけは私たちの人生に何が起こっていて、私たちが今どのような状況下にいるかを分かってくださっています。そして主は助けることが出来るお方!主はその力を十分にお持ちです。
さぁ、委ねるべきだと教わりました。ここでの委ねるとは投げる、投げつけるという意味です。ピッチャーがバッターに向かって野球の球を投げるような感じです。彼、もしくは彼女が思いっきり振りかぶり出来るだけ速い球を投げる準備をしているそんなイメージです。なるべく速やかに手から球を離します。私たちはそのようにして心配事を主に持っていくべきなんです。素早く手放し、投げ捨てるんです。いつまでも握りしめていてはいけません。思い煩いを「すぐにでも手放すべきもの」と捉えてください。バッターに向かって思いっきり投球するピッチャーのように、私たちは心配事を一刻も速くイエス様に真っ直ぐ投げるべきなのです。家族や友人たちはある一定のところまでは力になってくれますし、神様から助け手として遣わされて来ることがあります。しかし、最終的に私たちは「イエス様に」委ねる必要があるんですね。 ヨハネ12章27節は、神の独り子イエス様が、父なる神様に向かって「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時から私をお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」とおっしゃった姿を記しています。
またダビデは詩篇77篇2節で「苦難の日に、わたしは主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。」と言っています。この箇所には私たちがよく感じるイエス様に委ねるべきだと分かっているのに、自分でどうにかしようと一人で問題を抱え込んでしまうという葛藤の様子が描かれていますね。 私たちの人生にもストレスがあること、そして問題に立ち向かうためには謙る必要があり、私たちだけではどうすることも出来ないと自分の中でも、神の前でも認める事が大事だと学びました。又、心配事を出来るだけ速く、神様に思いっきり真っ直ぐ投げることの重要性も知りました。
では実際に、どうすればそう出来るのかを見ていきましょう。
ここで鍵となるのが、祈りです。すなわち神様との対話です。言葉を通してでも、涙をもってでも、沈黙の中での対話でも良いんです。声に出さず頭の中だけで祈った事があるという方もいらっしゃるでしょう。祈りは大きな声でも、心静かにでも捧げることが出来ます。イエス様は父なる神様に大声で涙を流しながら祈られましたね。神様はどんな祈りをも聞き上げてくださいます。主は私たちがどのように、又何について祈るべきか分からない時でさえ私たちの心の声を聞いてくださるんです。
先ず、ピリピ人への手紙4章6節に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とありますね。また、ヘブル人への手紙5章7節には「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって大きな叫び声と涙とを持って祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とも書いてあります。
賛美と感謝もとても大事です。
先ほども申しましたが、ピリピ人への手紙4章6節には「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあるんです。えーー!神様を賛美するの⁈ しかも感謝をもって祈るの⁉︎こんな苦しい状況の中で⁉︎
そうです!聖書はそうするようにと言っているんです。物事が上手くいっていないから賛美するんじゃないんです。苦難の中でこそ賛美するんです。感謝、賛美、祈りと願いはワンセットです。賛美と感謝は冒頭でお伝えしました「謙遜」の一部なんですね。私たちは神様を賛美し感謝を捧げるときに、いかなる状況下にあっても神様に信頼し、主が人生の舵をとってくださっていることを認めるのです。この賛美と感謝というのは、霊的戦いなんです。
さて、全ての思い煩いを主に委ねると一体何が起こるんでしょうか。
① 休息が与えられ、心の中の葛藤やザワつきがおさまります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」 マタイ11章28節 ② 神は苦難から私たちを救ってくださいます。主はときに状況をガラリと変え、またあるときは同じにされたまま、私たちを苦難から助け出してくださいます。
「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」 詩篇107篇6節
③ 困難の中で神様は私たちを背負い導き出してくださいます。大水や火の中を通らないとは約束されず、むしろどのような災いをも乗り越えられるようにしてくださるのです。
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを購ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない』」イザヤ43章1〜2節
④ この世が与えるものとは別格の平安が与えられます。人生が順風満帆な時に感じる安心感や平安とは違う、主からの平安です。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」
ヨハネ14章27節
⑤ 人知を超えた平安を体験します。
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」 ピリピ人への手紙4章7節
⑥ 走り抜く力をいただきます。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」 第2 コリント人への手紙4章8〜10節
⑦ 力と品性が育まれます。
誰かが以前こんな風に言っていました。「神の民に試練が与えられるとき、彼らは主から耐え忍ぶ力を頂き、成長する。『何が』人生に起こるかが重要なのではなく、その人が『どうそのことと向き合うか』が大事なのである。高級なヴァイオリンは暖かい雨を浴び穏やかな風に吹かれて育った柔らかい松の木からではなく、幾度も厳しい冬を乗り越え嵐をしのいで来た木から作られる。そのような強い木には味がある。クリスチャンの品性もまた、心地良いお花畑に寝そべって育まれるのではなく、人生の険しい道のりを辿って来た産物なのだ」と。
はーい。ではまとめに入っていきましょう。
今日は話を始めるに当たって、皆さんにフリー・ジャズをお聴きいただきました。ときに人生はフリー・ジャズのようですよね。もしかすると今まさに次の展開が予測不可能な状況におられる方もいらっしゃるかも知れません。
今からお聴きいただく曲は「私たちを救い出してくださる主への信頼と思い煩いをイエス様に委ねる最中、また委ねた後の光景」を表しています。
ペテロがかつて手紙を宛てた兄弟姉妹のように私たちにもやがて試練がやって来ます。ときにそれは迫害であり、友だちからの拒絶であり、裏切り、家族間の問題、仕事のストレスだったりします。またあるときは自分のした選択に悩まされ、己の愚かさ故に出た言動に苦しんだりもします。
主に全ての思い煩いを委ねる、投げるということを学んでいくと(今日明日で出来るようになる訳ではなくても、訓練すれば習得できます)もっともっと主を信頼できるようになります。そしていずれはそれが自然に出来るようになります。
そしてこのことを学んで行くと同時に、私たちは苦難の中にあっても人知を超えた平安を更に体験します。主は必ず私たちを試練の向こう側に導き出してくださる!と信頼出来るようになり、たとえ不安のただ中にいても、主を賛美する事が気負わずにできるようになるでしょう。