牧馬越牧師
コロナで数日間隔離生活を送っていた時に、私はあるドラマを観ました。ご存知の方もいるかと思いますが、Queens Gambit というドラマで, 1950 年代のアメリカが舞台になっている話しなんです。ある天才少女にチェスをやらせるとそれがものすごく強くて、世界チャンピョンになってしまうという話しなんです。この話し面白いよと妻に伝えると、「あなたは本当に遅れてるわね」と言われてしまいました。どうやら去年結構流行ったドラマのようなのですが、私はこれを見て一つの決心をしました。 チェスを始めることにしたのです。それをまた奥さんに伝えると、「あなたは本当に単純で分かり易いわね」とまたまた言われてしまいました。そんなことで過去3−4 週間にわたって、私はほぼ毎日チェスをしているのですが、最初の1週間ぐらいはほとんど勝てなかったんです。仕舞には7歳の娘にも負けてしまうというお粗末さ。どうして勝てないのかなあと思っていたら、私がそもそもチェスの根本的な考え方を理解していなかったからだということが分かったのです。チェスには、六種類の駒が あって、一つ一つの戦略的な重要さが決まっている。例えば、このポーンは1点の価値がある。ビショップは3点なんです。ナイトもビショップと同じで3点の価値がある。ルークはなんと5点なんですね。それを知った上で、何を犠牲にして、何を残すかという判断が常に求められる。私がチェスで勝てなかったのも、全ての駒をなるべく取られてないようにしていたから。チェスで勝つには、何が今の局面で重要で、何が重要でないかということを常に判断していかないといけない。
私たちの人生も同じですね。今目の前にある様々な機会や問題に直面して、私にとって何が必要で、何が重要でないのかを常に判断していかないといけないわけです。
娘をどこの学校に送ったらいいのか、どんな仕事についたらいいのか、何に重点をおいて事柄を進めていかないといけないのか、わからなくなる局面があると思うんです。また私たちは時にあまり重要でないものに目を取られてしまうと思うんです。重要でなく、つまらないことに気を取られて、私たちが本当にすべきことをせずに人生を送ってしまう。いつも人間関係にことに気を取られて、あの人の文句をいったり、人のことを噂したり、してふと立ち止まってみると、私はいったいこれまで何していただろうと気が重くなることもある。
そこで、今日は私たちは何に重点を置いて生きるべきなのかという質問を皆さんと一緒に考えたいと思うんです。
その質問を念頭においた上で、今日のピリピ人への手紙の聖書箇所を通して、この手紙を書いたパウロは人生において何に重点を置いていたのかをみたいと思います。まず始める前に皆さんのため、自分のために祈らせてください。
お祈り
[私の身に起こったこと]
ピリピ人への手紙の1章12節から読んでいきたいと思います。
12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
まず、ここでパウロが言っている「私に身に起こったことが」というのは、パウロが今の状況に陥るまでの全ての苦労について話しているんです。
使徒の働きという書簡を読むと、パウロは3回目の宣教旅行を終えた時に、エルサレムでパウロのことを妬(ねた)んでいたユダヤ人たちに捕まえられてしまうんです。濡れ衣を着せられ、街の人々に、袋叩きにされてしまう。町中が暴動で混乱していたため、しまいにはローマの兵隊が来て、パウロを捕獲するわけです。
パウロは今度はローマの兵隊に取り締まりを受けて、拷問を受ける直前に自分がローマの市民権を持っているという切り札を出すわけです。水戸黄門の「これが目に入らぬか!」のようにして、パウロはローマの市民権をかざすわけです。当時ローマの市民権を持っている人を裁判なしで処罰することは禁じられれていたので、パウロはなんとかしてローマの拷問を逃れるわけです。
その後、パウロはカイザリヤというローマの総督がいる街に移されて、そこで、2 年間もそのカイザリヤの街の牢屋で過ごすわけです。その後、パウロはエルサレムでユダヤの律法で裁かれるのを避けるため、再びローマの市民権を利用して、直接ローマの皇帝に訴え出るわけです。
そこで、とうとうパウロは船に乗ってローマの囚人船に乗せられて移送されるわけです。その船でローマに向かっている最中に、なんと船が嵐に遭遇して難破してしまうんです。何とか島にたどり着いて、やっとのことでローマに到着して、ローマの家で軟禁生活を送るわけですね。
この箇所でパウロが「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」というのは、「私がこうしてローマに来るまでに来た全ての苦労が、結果的にイエスキリストの福音を広めることになったんだよ」と言っているわけです。
つまり、パウロは、ものすごい大変な苦労にフォーカスをおいたのではなくて、その苦労から生まれた福音にフォーカスをおいた、その福音に焦点をおいた生き方をしていたということです。パウロがもし福音に目を留めた生き方をしていなければ、おそらくローマに到着した時点で、もう私の人生は終わったと思ったでしょう。もう何もできない、もうこの先真っ暗だと思ったことでしょう。でもパウロにとって最も大事なことは福音だった。よって、ローマで自由を失っても、福音のために働くことをやめなかったんですね。実はパウロがこのローマで監禁生活を送っていた時に、パウロは、このピリピ書、エペソ書、コロサイ人への手紙、ピレモン書という4つもの手紙を書いたんです。それも全て、パウロは福音に重点をおいた人生を送っていたからです。
皆さんは今日何に重点を置いて生きていますか?
ここで一つ、韓国に住んでいた時に親しくしていたある家族のことを思い出すんです。この家族には、ユナちゃんという娘が一人いました。ユナちゃんは、私たちの娘の麗歌と同い年でいつも一緒に遊んでいたんです。ユナちゃんのご両親は、目が不自由で目が殆ど見えなかった。普段の生活で色々と苦労があったので、私の妻が時々助けてあげたりしていた。そのユナちゃんのお母さんとユナちゃんがある日、ソウルの動物園に遊びにいったそうです。楽しく1日を過ごしていたのですが、どこかでユナちゃんはお気に入りの帽子を落としてしまいなくしてしまった。お母さんはがっかりして、探すにも目が不自由なので探せない。心を重くして家に帰ってきて、その日の夕方に旦那さんにその日の一部始終を話したようです。
「帽子をなくしてしまったのよ」と。すると旦那さんがこういったようです。「帽子をなくしたのは確かに残念だったけど、ユナをなくさなくてよかったじゃな い」と。そう言われたお母さんは、我に帰って、最も重要な我が娘をなくさなくてよかったなあと喜んだということです。私たちが重要なことにフォーカスすると、私たちは失敗があったとしても、喜びが残る。苦労があっても希望が残るということです。
人生の優先順位が、はっきりしていないと、何か困難があって自分がやりたいことができなくなると、私たちはすぐに、しょげてしまう。何だと、神様は何で私のことをこんなに苦しめるんだ。マイナスのことに目がいってしまう。
でも全知全能の神様が生きていて、神様が人生のフォーカスだとすると、苦難があっても、雲の上には太陽があると思うことができるということです。
パウロは、このピリピ人への手紙を書く前に、別の場所からローマに向けて手紙を書いたことがあるんです。ローマ書として知られている新約聖書の書簡の一つですが、そのローマ書の8章で、こんなことを言っているんですね。「神は、神を愛する人々に、全てのことを働かせて益としてくださる」と。決して、全てのことが益だよとはいってはいない。実際、たくさんの苦労もあり失敗もある。ただ、主権者だる神が、全てのことを使って、神の目に益となるように働いてくださるということです。
チェスの話し戻りますが、チェスのプロの試合を見ていると、時に何をやっているのかわからない時がある。プロは20手も先を見据えて駒を動かすので、素人の私が見ても、あれ、今の一手はミスったんじゃないのと思ってしまう。ただ、失敗のように見えるその動きが、最終的には勝利に繋がっていくんです。
同じようにして、私たちも、神のことにフォーカスが入っていると、失敗があっても、苦難があっても、最終的には良い神が、全てを益にしてくださるということが思えるようになる。
それが何でか?いやいや、パウロって今自由が効かない状況にあるんでしょ。何で、パウロがローマで監禁生活を送られていることが福音が広まることにつながるのと? そこでパウロはこう続けてその理由を説明するわけですね。
13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、その
ほかのすべての人にも明らかになり、 14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
パウロが投獄されていることによって、親衛隊の全員にイエスキリストのことが伝わるといっているわけです。
ローマの親衛隊というのは、当時ローマ皇帝のボディガードをしていたエリートの兵隊のことで、解説書とかを読むと当時13,000 – 14,000 人ぐらいの兵隊で構成されていたと言います。福音書を読むと、イエスキリストを最初に捉えたのも、このローマの親衛隊だったと書いてあります。
この親衛隊は、当時24時間体勢でパウロが逃げないようにパウロが住んでいた家の外でパウロを監視していて、4時間毎にその兵隊が交代していったようです。
そこでパウロは入れ代り立ち代り交代する兵隊たちに、「自分はイエスキリストを迫害する人生を送っていたけど、イエスに出会ってから自分の人生が180度変わったよ」と、イエスの奇跡のこと、十字架のこと、イエスの蘇りのこと、それらのことをを毎日毎日、兵隊が嫌というほど、話していたんでしょう。
もうパウロが監禁されているのか、見張りの兵隊が監禁されているのか、どちらが監禁されているのか、わからないような状況だったということです。
それを毎日のように聞いていた、兵隊たちは、兵舎に帰っても、自分たちの同僚に噂を広めていったのでしょう。いやー、パウロっていう変な奴が来て よー、毎日毎日、イエスキリストっていう人のこと話して大変なんだよ。
親衛隊の全体にパウロの口を通して、イエスキリストの福音が語られていったわけです。
そこで、14節にあるように、パウロが大胆にローマの兵隊に福音を語る姿を見て、パウロのことを慕っていた、他のローマのクリスチャンも勇気が与えられて、大胆に福音を語ることができるようになった。
このローマのクリスチャンというのは、パウロがローマに来る前から存在したクリスチャンなんです。違う経由でイエスキリストのことを信じて、細々とローマの迫害かで恐る恐る暮らしていたクリスチャン。いつも考えていたのでしょう、どうすれば、このローマの街でイエスキリストのことをもっと広めることができるだろうかと。
するとパウロが現れて、ローマにおいて最も影響力のある、ローマ皇帝に仕える兵士たちに福音が広められていったということです。どこにもいけない中でも、パウロはローマ中に影響力を持っていたということです。
このピリピ人の手紙の最後の最後の挨拶のところで、こんなことが書いてあるんですね。
22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしく
と言っています。(ピリピ 4:22)
つまり、パウロが兵隊たちに福音を語ることによって、ローマ皇帝の王室の中でもイエスキリストを受け入れていた人が起こされていたということです。
パウロは、自分が監禁されていることに目を止めず、福音に目を留めていた。福音が語ることができれば、パウロにとっては喜びがあった。パウロの人生における優先順位のNo. 1 が福音を語ることだったからです。
私たちもパウロのように、イエスキリストの福音に目を留めて生きる時、逆境も苦難もチャンスに変えられるということを今日覚えましょう。
パウロはさらにこう続けます。
15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意
をもってする者もいます。 16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福
音を弁証するために立てられていることを認めていますが、 17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。 18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
パウロが福音を広める中で、もちろん、すべてがスムーズに進んだわけではありません。パウロが良い働きをしていることを、他のクリスチャンの人たちが妬んで、その働きを妨げようとしたというんです。もしかしたらパウロがローマに来る前に、ローマの教会のリーダー的な人たちだったのかもしれません。
どの時代でも、どこの場所でも、教会も同じですね。中に必ず分裂がある。リーダーを妬むような人がいる。イエスキリストも人の妬みで十字架にかけられたといっても過言ではないです。当時のユダヤ人のリーダーたちが、イエスキリストの爆発的な影響力を妬んで、理由をでっち上げて、十字架にかけたわけです。「あれ、イエス様、あなたはなんで安息日を守っていないのですか?」「あれイエス様、あなたはどうしていつも罪人と食事を共にしているのですか?」
今、デトロイトで教会開拓をしていますが、私も妬みに陥らないようい気をつけないといけないなあと思う時があります。ああー、あの教会は成長しているけ ど、私の教会は成長してないなあとか、あーあっちの牧師はこんなことができていいなあ。教会の大きさだとか、教会の座席数だとか、そういうことに重点が置かれていると、本当に私が牧師としてやらなければいけないことができなくなってしまう。
では、パウロの反応はどうだったかというと、18節で「 18 すると、どういうことになりますか。」と書いてあります。ここでパウロは質問しているわけではなく、いわゆるレトリックを使っているわけです、弁論術です。日本語だと堅苦しい感じなのですが、感覚的には、「だからどうした」という意味です。英語だと、so what? Who cares?!
見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
ようは、パウロは反対する人に目を取られないで、この時も福音にフォーカスしてるわけです。結局のところ福音が語られればいいやと!その福音にフォーカスすることによって、パウロは分裂がある中でも、喜びが絶えなかったということです。
私たちは普段、たくさんの分裂に直面します。人との衝突、口論。教会の中でもそれがあります。分裂がなくなるためにはどうすればいいのか?時に私たちは、それを相手を変えようとすることで実現しようとしてしまう。ああ、牧師がもうちょっとリーダーシップがあればいいのにとか、もうちょっとメッセージを磨いてくれればいいのにと思う。
夫婦間の分裂もそうですよね。うちの奥さんがとにかくちょっともっとしっかりと旦那に支えてくれればいいのに。うちの旦那がもっと私のいうことを聞いてくれればいいのに。先日も、私が間違って、うちの妻の靴下を履いていたので、口論になったことがありました。ちょっとどうして私の靴下履くのよ!靴下ぐらいいいじゃないの!
こんなふうにして、サタンは本当に小さくてつまらないことに私たちの目を向けて分裂を起こします。
でもそんな時に私たちは、パウロがここでいったように、so what、それがどうしたといって、イエスキリストに目を向けないといけないんです。イエスキリストに目を向けた場合は、私たちは人を許せるようになる、自分の過ちを認めて悔い改めることができるようになる、サタンの策略に騙されず、本当に大事なイエスキリストの福音のために、キリストの体である教会のために生きることができるようになる。
最後にパウロはここで、こう語っています。
そうです、今からも喜ぶことでしょう。 19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。 20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
パウロにとっては、生きることも死ぬことも全てイエスキリストのためだといっているんです。
このあがめられるという言葉は、ギリシャ語の原語で「メガヌーオ」という言葉で、小さいものを大きくすると意味があるんです。空を見上げると小さくしか見えない星が、望遠鏡を持ってくると大きくなるように、イエスキリストが昔は心の隅っこにあって、小さな存在でしかなかったんだけど、イエスキリストの十字架と、イエス様の愛が理解できて、小さかったイエス様が心の中で大きくなる、それが私の生きる目的だよとパウロは入っている。だから私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益ですとパウロは言えたのです。
あるアメリカの牧師がこの21節の聖書箇所をとって、こんなことを言いました。
この21節の、「 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」という文章が成り立つためには、ここにキリストという言葉が入らないといけない。もしキリスト以外の他の言葉がここに使われた時は、文章が成り立たない。例えば、もし私にとっては、生きることはお金、だったとしたら、死ぬことは益ではなくて、損になるわけです。または、生きることは、仕事ですという人も、死ぬことは、益にはならない。
唯一、この文章構成で、生きることも死ぬことも同じことが言えるのは、イエスキリストという言葉に生きる時なんです。私たちがイエスキリストの福音を目的として生きた場合、どんな状況でも喜ぶことができるようになる。
今日、皆さんはイエスキリストの福音を見ていますか、それとも問題を見ていますか?
神様は私たち一人一人が、確信にみちた、喜びに満ちた日々を送れるように、私たちのために、イエスキリストをこの世に送ってくださいました。イエスから目をそらさず、今週も歩んで行こうではありませんか。