メッセージ:サミュエル・キム牧師
日本語訳:クロガー潤子
2023年4月9日
聖書箇所:ヨハネの福音書3章16節
大きな画面で見る宇宙は本当に美しいです。宇宙の真っ暗な空間でキラキラした色とりどりの星を見た時に、感動して涙を流した天体物理学者も少なくありません。神はこの様に美しい世界を造られ、それを「良し」とされました。しかし、神が創造されたあらゆる惑星の中で、神が生命を造られたのは地球だけです。私たちが知る限り、生命体が存在するのは地球だけなのです。その他の全ての惑星は空気がないので生命が存在せず荒野の様に寒々としています。それとは異なり地球は豊富な水、新鮮な空気、穏やかな気温、そして莫大な資源があり、生命にとってとても良い環境です。この地球は海から陸地、地下深いところにいる微生物まで、生命で満たされています。神は地球の生命を創造し、それは非常に良いと言われたのです。
神は宇宙のどの星よりも地球を愛しておられます。なぜだと思いますか?その理由は人間である私たちが地球にいるからです。人間が生きることができる様に、光や空気、水、植物、そして動物を創造された神は、人に地のすべての生き物を管理することができる権威と能力を与えました。神は、人を神に似た人格、思い、心を持つ者、そして神と真の交わりを持つ唯一の霊的な存在として創造されました。それは人に対する特別な愛によるものでした。神は男と女を創造され、彼らを見て「とても良い」と言われたのです。
「神は見てそれを良しされた」というのは、神が人を愛しているという意味です。本日の聖書箇所で次の様にあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された…。」この「〜ほどに」とは、「とても」あるいは「非常に」という意味です。ゼパニヤ書3章17節では、神はがどれほど人を愛しておられるかを見ることができます。
「『あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』と。」
神は、ご自身の喜びを内にしまいきれないほど、人である私たちを愛しておられます。詩篇2章7節でそれは更に詳しく表現されています。
「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。」
人類の言語の中で最も愛が良く表現されているのは、「わたしがあなたを生んだ」すなわち、「わたしがあなたの父になった」という表現です。神と人との関係は切り離すことができません。神が愛する対象は、宇宙でもなければ地球でも、その他の生き物でもありません。それは神がご自身の性質をもって創造された、人間なのです。「神は実に世を愛されたほどに」というのは、地上の人間に対する愛のことを言っています。神は人に対する愛のゆえに豊かな自然を用意され、神に似た存在として、そして人が喜んで生きることができる様にされました。神の愛はここにあるのです。
キリストにある兄弟姉妹の皆さん、私たちはひとりではありません。なぜなら私たちを心から愛してくださる神が共におられるからです。それを思うとき喜びが湧き出ます。是非この神の大きな愛を覚え、喜びと感謝を持って歩んでいただきたいと願います。
悲しいことに多くの人が幸せな人生を生きてはいないのです。世の中の出来事は、ボタンがかけ違えられたかのように、不具合が生じています。行くべきではない道、選ぶべきではない道を選んでしまうことによって人生はみじめになります。その主な原因は罪です。罪はギリシャ語で“hamartia”と言い、「的外れ」という意味です。正しい道から外れるというのは罪です。残念ながら私たち人間は的を外して生きているのです。ローマ書3章23節には次の様に書いてあります。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」罪には痛みが伴います。多くの人に愛されたダビデ王も罪を犯し、瓶に入れてためられるほどの涙で枕を濡らす夜を過ごしました。どれだけ辛かったでしょうか。彼の心も体もやせ衰え、湧き出る喜び、救いへの感謝、楽しみを失いました。罪による痛みは深刻です。私たちは罪のために苦しみ、罪によって神との交わりが絶たれ、神が与えようとされている良いもの、すなわち、喜び、恵み、楽しみなどを罪によって失ってしまうのです。
パウロという神に従った人物が、罪による痛みがどれだけ酷いかを、次のように嘆いています。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ書7章24節)
人は罪のために苦しむのです。
しかし神はこの状態で人を見捨てることはされませんでした。神は、今日読んだ箇所でも見たように、御子イエスを世に送ってくださいました。ではそのイエスは何をしたのでしょう?それはローマ書5章8節に書いてあります。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
「私たちがまだ罪人であったとき」というのは、「人間が罪の問題を解決できなかったとき」という意味です。神の御子である主イエスは、人の罪の代償として十字架で死なれました。私たちの罪の代償を払うために、御子イエスをこの地上に遣わされたのは、神の驚くべき愛から出た行動です。
あなたは愛を示すために、お金や土地を人に与えることはできるでしょう。献血もできると思います。しかし自分の命を他人のために差し出すということはあまりないことです。イエスは、私たちの愛を受ける代わりに、鞭の苦しみに耐えてくださったのです。
十字架にかけられ、侮辱されることで愛を示すこと、愛の行為として地獄の苦しみを味わう人は他にはいません。
このような愛を与えることができるのは神だけです。これほど美しく、真実な愛はありません。ですから、聖書はこのように言っているのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」
ではこの十字架の素晴らしい愛によって私たちはどうなるのでしょう?聖書には次のように書かれています。
「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書 53章5節
イエスの愛によって私たちの罪は赦され、罪から解放され、癒やされるのです。
この素晴らしい十字架の愛を覚えるなら、過去にどのような罪を犯したとしても、本物のの自由と平和を受けることができるのです。皆さんの心が、十字架の罪の赦しの恵み、癒し、感謝、自由、平安で満たされることを祈ります。
神の素晴らしい愛を受けるには、信じる信仰が必要です。そうして初めて、その愛が本当に自分のものになるのです。つまり、この素晴らしい神の愛を信じるまでは、自由も平和も救いも永遠の命も、手の届かないところにあるということです。なので今日の御言葉はこのように宣言しているのです。“ 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ハレルヤ!神は御子をこの地上に遣わされ、御子である主は十字架に釘付けにされ、残酷に殺されることにより、私たちの罪は赦されました。この大きな愛が、あなたと私を救ったのです。この素晴らしい愛を信じ、頼るとき、イエスを信じる者は滅びることなく、永遠の命を得ることができると宣言することができるのです。
あなたはこの十字架の愛を信じますか?
あなたは救いにつながる信仰を今持っていますか?
私たちの主は、長い間血の疾患で苦しんでいた女性を癒しました。
イエスはザアカイの信仰を見て彼の罪を許しました。
十字架にかけられた犯罪人の信仰を見られ、救いの確証をされました。
ステパノの信仰を見られ、神は天の扉を開かれました。
もしあなたが、主イエスが十字架にかかったのはあなたの罪のためだったと信じるなら、あなたは死から命へ移される、すなわち、救われるのです。それには信仰が必要です。もしかすると、あなたは人生の歩みの中で財産を失い、健康を損なうかもしれません。しかし、信仰だけは失ってはなりません。なぜなら、信仰は私たちの魂を救いに導くからです。主が私の罪のために十字架で死んでくださったという信仰に満たされ、希望と自信をもって今日と明日を迎えることができるのです。