Rev. Samuel Kim
クロガー 潤子 訳
2023年2月19日
聖書箇所:ヨシュア記4:19-20
ある人は、「クリスチャンの証の意味は何だろうか」とか、「なぜ自分の信仰における体験を語る事が大切なのか」と思うかもしれません。実は、体験や証は、信仰の本質ではありません。奇跡を経験したり見たりしなくても、真の信仰を持つことができます。そうなのです。私たちの信仰は、奇跡や神秘的な出来事を個人的に経験することに依存することはありません。なぜなら、それらがなくても、神は生きておられ、奇跡を起こされた、イエス・キリストを通して明らかにされているからです。
しかし、聖書では多くの箇所で、神の存在を証しする「記念日」や「記念品」が強調されています。聖書の時代では、奇跡は日常的な体験のように思われていました。そして、神によって素晴らしいことが成された後、人々はそれを「記憶」しなければならないと、神は人々に命じられました。具体的には、神を覚え、成された業を感謝して祝うために、過越祭のような儀式的な決まりを示したり、記念碑を作るように言われたのでした。今日の箇所は、ヨルダン川の奇跡の後に設置された記念碑の話です。
イスラエルの民は、荒野での40年間における旅を経て、ようやく約束の地に入りました。しかし、約束の地カナンに入るための最後の難関がヨルダン川でした。この時期、ヨルダン川はひどく氾濫しやすく、ヨシュア記には、ヨルダン川が氾濫したという記載もあります。これは、ヨルダン川の上流部にダムが建設される前の1935年、ヨルダン川で起きた洪水の写真で確認されたものと類似しています。インターネット上でも、漢江(*韓国で流域面積一位を誇る河川)ほどの幅の洪水で多くの家屋が水没した写真を見つけることができます。洪水時には、800mから1kmにも及ぶ流れの激しいこの大河は、特別な訓練を受けた一部の人以外、決して渡れない川でありました。この大河が、「約束の地」への入り口をふさいでいたのでした。人間的に言えば、大勢の人が、氾濫した川を渡れるわけがないのです。
しかし、神は彼らに契約の箱を先頭にして川を渡るように命じられました(3章)。これは、神が、彼らが川を渡る前に与えた指示でした。ヨシュアとイスラエルの民は、信仰を持ってそれに従いました。契約の箱を担いだ祭司たちの足がヨルダン川に触れた瞬間、つまり契約の箱がヨルダン川に入った瞬間、水の流れが止まりました。実は、ヨルダン川流域では過去に何度か地震が起こり、地滑りが起こり、大量の土石でヨルダン川流域がふさがれたことがあるのです。おそらく、ヨルダン川を渡るときに、神の直接の介入でこのようなことが起こったのでしょう。大きな川が氾濫したのですから、大規模な地滑りも起こったのでしょう。ヨシュア記によると、ヤボク川とヨルダン川が合流する地点のアダムという町で水がせき止められ、そこに溜まったとあります。神はおそらく、まさにそのタイミングでヨルダン川の水をせき止め、水を枯らして、すべての民が問題なく、乾いた川底を渡れるようにされたのだと思われます。
これはすべて、神の手によってなされた奇跡です。人が何かしたということではなく、彼らがヨルダン川を渡ったのは、ただ神の一方的な恵みでした。それは私たちの救いも同じです。救いは自分の行いや、善行、努力によって得られたのではなく、神の力と恵みによって自由に与えられるものです。ですから、イスラエルの民はこの出来事を忘れてはなりませんでした。彼らは以前、出エジプトと紅海の奇跡を体験しています。それから40年後、次の世代はヨルダン川の奇跡を体験しました。こうして、イスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ることで、彼らに対するエジプトからの解放という計画は、ようやく完成したのでした。これはすべて、神の力と奇跡によってのみ、成されたことです。民に求められたのは、純粋に従うという信仰だけでした。
ヨルダン川の奇跡で完成した、イスラエルに対する神の救いの業は、永遠に記憶され、記念されなければなりませんでした。そこで神は、記念として12部族を表す12個の石を積み上げるように言われました。その石は、奇跡の場所から持ってきたもので、祭司たちが契約の箱を運ぶために立った、まさにその場所から運んだ石です。その12個の石を約束の地での最初の夜を過ごしたギルガルに運び、そこに据えました。そして、神は他の12個の石を取り、祭司たちが立っていた場所に置くように命じられました。それは、奇跡が起きた場所を忘れないためでした。こうして、12個の石が2組、記念の石として建てられたのです。ヨルダン川の中州に立てられた石は、ヨルダン川が引くたびに姿を現し、神の奇跡を人々に思い起こさせることになりました。ヨルダン川から取られたもう一組の12個の石はギルガルに運ばれてそこに立てられましたが、その目的は今日の箇所で詳しく説明されています。
後に生まれた子供たちは、この石の柱を見て質問することでしょう。「この石にはどんな意味があるの?」と。その時、「イスラエルの民が、このヨルダン川の乾いた地を渡ったからだよ。」と、父親は子供たちに答えます。このヨルダン川での驚くべき奇跡を、後世まで永遠に忘れないために、ギルガルに12個の石が建てられたのです。そして,この奇跡を記憶すべき、さらなる理由は、地上のすべての民に神である主の力を知らしめるためです。また,イスラエルの民に,この力強い神を恐れ、主に信頼させるためでした。
先に述べたように、私たちは霊的な働きや奇跡を経験しなくても、神を心から信じることができます。しかし、何か特別な霊的体験や奇跡を持っている人は、そのことについて霊的傲慢に陥らないようにしなければなりません。また、それを自慢してはなりません。むしろ、自分が信仰生活を全うしているかどうか、謙虚に自分を見つめなおす必要があります。そして、ヨルダン川の奇跡のような奇跡を自分の人生に見ることができる目を祈る必要があります。実は、私の人生の旅路の中でも、神は、私が気づこうが気づかまいが、私のためにヨルダン川の奇跡を行われたのかもしれません。それが私たちの証しとなり、記念となるのです。ですので、私たちは自分の人生を振り返る時が必要です。私の人生の中で神の行って下さった奇跡の現場から意識的に「土産」を拾ってきて、神様が働いておられる証拠、記念にしなければならないのです。
日本語礼拝に参加されている皆様、私たちの人生の旅路の中で、12個の石のように、皆さんの証を覚えていてください。神は私たちのために働き続け、私たちをより神に近づけるために働いてくださってます。証を通して神の存在を感じながら生きるとき、また、日々人生の初めから終わりまで導いてくださる主の素晴らしい恵みを受けるとき、大切なことは、「恐れるな」と何度も伝えてくださる神の言葉のように、私の人生は祝福の時であったと告白することなのです。
自分の人生のすべてを主に委ね、イエスの復活によって、主は生きておられ、私を通して働いてくださる神に信頼して、新しい年を過ごしていきましょう。アーメン。