嵐を静めるイエス

Rev. Bob Laning
クロガー潤子訳

2022年10月9日

聖書箇所:マルコによる福音書4章35節~41節

今日は、人生が思いもよらない方向に進んだ時、神がその人生の嵐を静めてくださるということを、御言葉を通して皆さんに思い出して頂きたいと思います。

今日の聖書箇所はマルコによる福音書4章35節から41節です。

この箇所は、イエスと弟子たちが船に乗っていた時に起きた激しい嵐をイエスが静めた、というところです。

では、マルコによる福音書4章35節から41節を読んでみましょう。

「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

 イエスは多くの奇跡を行いましたが、今回の話もその中の一つで、イエスが激しい嵐を静めたという話です。私たちはこの箇所を通していくつか学ぶことができます。

まず第一に、神は愛によって私たちに働きかけてくださるということです。神は私たちがどんなに難しい状況の中にいても変わらず愛して下さっています。私たちは、思いがけないことが起きた時、神に祈り、助けを求めます。しかし、私たちは自分が思う様な状況にすぐに変わらない、または自分の思うタイミングで助けが得られない場合、「神は私たちのことなんかどうでも良いんだ。」、あるいは「神は助けるのが遅い。」などと思ってしまいます。

第二に、私たちがイエスに従う時、イエスが最終的に私たちのために全てを成してくださる、と信じることが必要です。私たちにとって最適な時に、最適な方法でそのことをして下さいます。そのために、私たちは、主が成し遂げてくださることを信じなければなりません。これが信仰です。私たちは忍耐を持って見えないところで働いてくださるイエスに信頼しつつ、前進するのです。これは時に難しいと思うかもしれません。

第三に、主は約束されたことを必ず守られる方です。それは主の方法で、主の時にしてくださいます。これもまた、私たちに対する主の愛を信じることが必要になります。

では、今回のお話にもどりましょう。イエスと弟子たちは、木で造られた舟に乗り込み、ガリラヤ湖を渡り始めました。

ガリラヤ湖は、イエスが住んでいた場所の近くにある、イスラエルの大きくて美しい湖です。

その時イエスは体が疲れ果てて、弟子たちと共に、群衆から離れて休みもうとされました。彼は舟の船尾で寝ています。(この時イエスは何かをされるという状況ではありませんでした。)

突然嵐がやってきて、その波最大で7フィート(約2メートル)でした。波は船にぶつかり、船は沈没しそうな勢いです。嵐は、イエスを含む彼ら全員を飲み込もうとしています。弟子たちがイエスを起こすまでイエスはその激しい嵐の中で眠っておられました。波が船にぶつかり、船が今にも沈みそうになっていても、イエスが目を覚さないのは、弟子たちにとって理解が出来ませんでした。弟子たちの思いはイエスがすぐにでも起きて、何かしてくれることでした。弟子たちは恐怖に駆られ、また、イエスが自分たちが溺れるのを気にしないと、イエスを強く非難しています。弟子たちの反応から考えると、弟子たちは、イエスが自分達を助けることができると信じていなかったのかもしれません。もしかしたら、イエスが何もできないとさえ思っているかもしれません。皆さんもこの様なことありませんか?

イエスが、弟子たちが自分たちを助けないことを非難した時、弟子たちに言ったのは「あなたの信仰はどこにあるのか」でした。イエスは弟子たちに「あなたの信仰はどこにあるのか」と言ったのは、読み手にとって、不思議な反応です。彼らが全員溺れそうになっていたのですから。弟子たちが動揺していてもイエスは冷静であり、怯むことはありませんでした。そして、嵐に向かって直接、厳しく叫んで、「静まれ」と命じられます。嵐は静まりました。波はおさまり風も止みました。彼らは全員救出されたのでした。

この箇所は、今日の私たちの生活とどのような関係があるのでしょうか。

ローマ人への手紙8章28節にはイエスの私たちに対する愛の働きを見ることが出来ます。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

皆さんは、肉体的、精神的、霊的に疲れ果てた経験がありますか?時々、逃げ出したくなることはありますか?そして、もうこれ以上はどうしようもないと思ったはありませんか?このように疲れているときに思いがけない困難がやって来る事があります。まるで嵐のような激しい雨と2メートルの高さの波が、何の心の準備ができていないときにやってくるのです。

成績が、思った様な結果ではなかった。希望する学校やプログラムに入れなかった。COVIDが原因でが職を失った。あるいは周りの人たちが職を失った。離婚した。愛する人が突然亡くなった。(特に病気が原因で亡くなった場合。私たちはこの3年間、全員がCOVIDの何かしらの影響を受けています。) 経済的な問題、もしかしたら多くの返済をしなければならないか人もいるでしょう。また、将来の人生に不安を覚える人もいるかもしれません。

私たちは、木で造られた舟に乗り、今にも沈みそうな気分です。私たちは助けを求めてイエスに叫びますが、イエスが 「舟の底で眠っているようだ 」と思うかもしれません。

「あなたが必要なとき、あなたはどこにいるのですか 」と神に叫ぶ事はありませんか?イスラエルのダビデ王も同じ思いで、詩篇22:1-2でこの様に言っています。

「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。」

状況が変わらない様に見える時、私たちは問題に注意を向けてもらうために、神を起こさなければならないように思えます。「風はまだ吹き続け、波はまだ舟に押し寄せている」状況の中で。この様な状況の中で神はどの様に「全てを益」として働いてくださるのか?と、皆さんはこのように感じたことがありますか?

イエスは起き上がられ、「私に信頼して待ちなさい」と言われています。イエスが嵐に命じてそれを静めて下さいます。そして私たちの願う経済的、健康的な必要や、仕事、進路などとは違うかもしれないけれど、神の最善が私たちの人生に成され、私たちに平安がもたらされるのです。

神は扉を開け、時にはそれを閉ざします。あなたが本当に働きたかった職場への就職の扉が閉ざされたとしても、神があなたを豊かに用いるために他の職を与えて下さいます。

私は、本当にやりたかった仕事に就けず、後でもっと良い職に就いた経験があります。連邦刑務所で牧師をしていた時、私はフロリダの中部に移ることを希望しました。しかし、その扉は閉ざされ、私はコロラド州の職場で働かなければなりませんでした。それから約3年後、もともと希望していたマイアミの刑務所での職を得ました。最初に希望していた職に就いていたらマイアミで働く機会がなかったので本当に良かったと思います。神は私たちのために、最初の仕事よりも良い、別のプログラムや仕事を考えていて下さったのです。それが神の最善だったのです。

神は、私たちと一緒に「思いがけない困難」の中を歩いてくれるでしょう。もし私たちの希望通りの道を与えて下さったとしても、もしかしたら私たちにはその道を通る準備がされておらず、自分達ではどうしようもないこともあるかもしれません。神は全てをご存じです。

「何故こうなったのか」という問いに答えが出ない時もあります。それは個人から国のレベルまで起きることです。

家族や友人のために長い間祈ったことはありますか?聖書が教える救いをなかなか聞いてくれない、理解してくれない、心を閉ざしている家族友人が救われる様に、あるいは壊れてしまった関係を修復できる様に、長い間祈っても祈りが聞かれないと感じたことはありますか?

マタイによる福音書17章20節でイエスは弟子たちにこの様に教えています。「。。。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

からし種は一番小さな種ですが、大きな木になります。イエスは弟子たちに、山を動かすことができる神が、あなたの人生の山も動かしてくださるから、その神に信頼しなさいと教えています。

今年の9月、ナンシーと私は旅行に出かけ、イエローストーン国立公園、サウスダコタ・バッドランズ、ティトン国立公園、ラシュモア山、セオドア・ルーズベルト国立公園へ行きました。どこもとても素晴らしかったです。雄大な山々を見ました。熱い蒸気が飛び出る、間欠泉の近くに泊まりました。マウントラッシュモアは本当に素晴らしかったです。私たちが1週間滞在した友人は、ティトン山脈の真ん中にある牧場に住んでいます。

上の写真は、ティトン山脈にある友人の家で撮った一枚です。皆さんは、山に「どこかに行け」と言ったことがありますか?イエスの御名によって山(あるいは波)に「動け(あるいは落ち着け)」と言えば、そうなるということです。この高い、荒い岩山を見て私は、イエスが山を動かすということを言ったことがどれほど大きなことか、思い起こさせられました。本当にすごいことだと思います。山はすぐには動かないかもしれないし、思ったようには動かないかもしれません。しかし(世界を創造された方、自然を治められる主)イエスは山や波に対して「動け」「静まれ」と命令なさるのです。私たちはこのイエスに信頼した祈りを通して、神の業が成される事を見ることができるのです。素晴らしいと思いませんか?

聖書のイザヤ書には、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる。」と書かれています。神はとても創造的な方です。

ナンシーと私の場合、私たちの願いに対する神の答えは、予想もしなかったような方法で答えられます。そのため私は、もう神にいつ、どのように答えてくださいという祈りはしません。ただ必要なことを伝え、それを成し遂げてくださいと信じて祈ります。多くの場合、神は私が予想もしなかった方法で答えてくださり、そのタイミングも私が望んだものではないことがよくあります。しかし,それは最善の方法であり,最善の時なのです。私が刑務所で働いていたとき、ある受刑者は、母親や祖母が何年も祈ってくれていたのに神を信じず、彼が神に関心を向けることができる刑務所に来たことで、クリスチャンになったと話してくれました。

冒頭の話に戻ります。

神の私たちへの関わり方の動機は愛です。たとえ、私たちの状況や感じ方、考え方が、神の愛を感じられなくてもです。嵐の中でのイエスの奇跡から、私たちが何を学ぶことができるかを見てきました。嵐に見舞われたとき、イエスがどのように対処されたかを見てきました。私たちは、どんな状況であっても、神がいつも私たちを愛してくださっていることに気づかされます。

イエスは私たちに、イエスが私たちの人生の嵐を静められることを信じてほしいと願っておられます。私たちのために、最善の方法で、最善の時に。これには信仰が伴います。もし私たちの感情や考えを優先してしまうと、それを理解するのが非常に難しいと思います。

最善な時に、最善の方法で、イエスは約束したとおりにしてくださいます。私たちは人生に困難がある時、助けを求めて叫びます。イエスは、最善な時に、最善は方法で、私たちのために尽くしてくださいます。私たちがほんの少しでも信仰があれば、主イエスは私たちの人生の嵐を静めてくださいます。私たちの人生の山は取り除かれるのです。また、イエスを信じる信仰によって、人生の困難が解決されるように、あるいは落ち着くようにと、イエスの御名によって祈ることができます。主は私たちの声を聞いてくださり、その祈りに答えてくださいます。困難な状況が過ぎ去った後、私たちはその状況を振り返った時に、神が私たちの祈りに、どの様に答えて下さったか、感謝することができるのです。

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