メッセージ:ジョン・D・クロガー牧師
日本語訳:クロガー潤子
2023年3月19日
聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 5章16~25節
使徒パウロは、ガラテヤ人たちに個人的に、福音、すなわち、ナザレ人イエスキリストが救い主であるという良い知らせを教えていました。そしてガラテヤ地方に住む多くの人々がイエスキリストこそが罪から救ってくださる方だと信じて信仰を持ちました。
パウロがガラテヤ地方を去った後、偽教師たちがその教会に入り込んできました。この偽教師たちは、旧約聖書の律法を守り行うことで人は救われる、という間違った教えによって、人々を惑わし、最初に伝えられた良い知らせから人々を離れさせてしまいました。パウロは、ガラテヤ人たちに書いたこの手紙の冒頭で、ガラテヤの教会の人々に、自分が直接彼らに伝えた真理を思い出すように語っています。
パウロはガラテヤ人にパウロの伝えた教えの権威、そしてそれは神から出ていると言っています。しかし偽教師たちは、パウロについて嘘の証言をしてガラテヤの教会に集っていた人々を惑わし、パウロが伝えたメッセージを信じないように仕向けました。残念ながら偽教師たちの嘘はそのまま信じられてしまったようです。ガラテヤ人の手紙1章6-8節を見るとそれが分かります。
「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。」ガラテヤ人への手紙 1章6~8節
ではなぜ、ガラテヤ地方のクリスチャンたちは、いとも簡単に「人は信仰によって救われる」というパウロが伝えた真実から、「律法を守る、行いによる救い」に移ってしまったのでしょうか?
私たち全ての人間は問題を抱えています。それは「罪」と呼ばれるものです。私たちは神の完璧な基準に到達することはできません。以前この場所でメッセージをさせていただいた時に、私は次の様な事をお伝えしました。聖書の創世記というところに、神が完全な世界を創造されたと書いてあります。神は、神に似たものとして男と女を創造されました。それは彼らが神との完璧な関係、完璧な人間関係、完璧で正しい自己肯定感を持ち、そして自然と完全に調和して生きるためでした。聖書には、罪、すなわち人が、完全で純粋で聖なる神に反抗したことによって、それらの完璧な関係が壊れてしまったと私たちに教えています。神との関係が絶たれてしまったので、人は何をしても、神の基準や条件に到達することが出来なくなってしまいました。ローマ人への手紙3章23節に、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」と書かれてある通りです。更に聖書には、私たちは、神からしたら知らない人、あるいは敵となったとも書かれています。しかし、神の優しさと愛によって、私たちが人生に希望と目的を持って生きることが出来る様に、神は、壊れた関係を立て直すための方法を与えてくださいました。聖書は、神がその完全な御子を遣わし、神を喜ばせる生き方を私たちに示すために、罪のない完全な人生を送り、私たちの罪の代わりとしてその命を捧げられたと教えています。
ローマ人への手紙6章23節「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
創世記に書かれている人類最初の両親であるアダムとエバは神に逆らい、罪を犯しました。その日神は、彼らに罪の結果として世界は壊れ、病気や痛み、そして死が始まると告げました。
アダムとエバが神に逆らったその日、たとえ彼らが罪を犯したとしても、いつか罪と死から世界を救う救い主を送ると、創世記3章で神は彼らに語っています。それから2000年後、神はアブラハムに、「彼の子孫を通して、世界中の全ての人が祝福される。」と約束しました。この約束は、100年後に生きたアブラハムの孫、ヤコブ(イスラエル)を通して繰り返し伝えられました。(創世記49章参照) 神がアブラハムに約束されてから430年後、再びモーセを通して同じ約束が繰り返されました。ちなみにこのモーセは、旧約聖書の律法を記した人物です。律法は、神の完璧な基準をイスラエルの民に教えるために書かれました。旧約聖書の律法の項目は沢山あり、イスラエルの民はそれに従わなくてはなりませんでした。しかも、それらの規則に従えなかった罰として「死」を要求されました。これは非常に深刻です。なぜなら、私たちは誰ひとりとして、神の基準を完璧に守ることができないからです。イザヤ書64章6節には、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。…」と書かれています。私たちの最高の行い、努力すら、聖なる神の完璧な基準に到達することは出来ないのです。ヤコブの手紙2章10節でもこの様に書かれています。「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」
旧約聖書の律法では、イスラエルの民は傷がひとつもない子羊を生贄として神殿に連れて行きます。この子羊が、その人の罪の代わりに身代わりとなって死ぬことで、罪が覆い隠されるのです。旧約聖書の律法は、神の完璧な基準を示し、神の完全な基準を守れなかった時に受ける罰を示しますが、律法を守りきれなかった罰から人を救う事は出来ません。
ヘブル人への手紙 10章1-4節ではこの様に書かれています。「律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。」
律法は誰も救う事は出来ませんが、律法は、私たちがどの様に神を敬い、神の御心を求めて生きていけば良いかを決めるための模範になります。
詩篇 119篇9-16節
「9:どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。10 私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。11 私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。12 主よあなたはほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。13 私はこの唇で語ります。あなたの御口のさばきすべてを。14 私はあなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。15 私はあなたの戒めに思いを潜めあなたの道に私の目を留めます。16 私はあなたのおきてを喜びとしあなたのみことばを忘れません。」
旧約聖書では、「仰せ」、「おきて」、「戒め」はすべて「律法」の別名であり、律法は私たちを神への信仰に導く模範でした。パウロは、「律法」とは私たちをキリストへの信仰に導く家庭教師や管理人のようなものであったと書いています。
ガラテヤ人への手紙3章11節では、「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。」とあり、ガラテヤ人への手紙3章24節では
、「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」とある通りです。
旧約聖書の初めの書、創世記から最後の書であるマラキまで、神は350回以上、救い主を送るという約束を、その救い主は何をするのか、その救い主は神の正しい基準である律法を完全に守るので、私たちを罪から救うことができるということを繰り返し伝えておられます。
イザヤ書53章4-11節を見てみましょう。
「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」
私たちには高ぶった思いがあるので、自分を救うために何かできる、しなければならないと考えますが、実は、私たちは自分の罪深さのゆえ、自分を救うために何もすることができません。私たちには、律法を完璧に守ることが出来た救い主の、完璧な救いが必要なのです。
ガラテヤ人への手紙4章4-5節にはこの様に書かれています。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」
神に認めてもらおう、救ってもらおうと、様々な慈善活動をしたり、良い人間になろうとするのはとても疲れます。それはまるで終わりがなく、止まれず、減速もできず、ゴールに近づくことができない競走の様なものです。本物の救いである福音、すなわち、良い知らせの素晴らしさは、罪のない神の子イエス・キリストが、あなたの為にその終わりの見えない距離を完璧に走り、完走してくださった、ということです。
マタイの福音書11章28-30節で、イエスは人々に次の様に言っています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
神に認められよう、救いを得ようとする重荷は、私たちの誰が背負おうとしても重すぎます。この箇所でイエスは、私たちに語りかけています。自分の行いによって自分を救おうとする重荷を捨てなさい。自分がどれだけ神に基準から離れているかを隠す様に、自分を完璧に見せようとする重荷を捨てなさい。自分の努力に頼ることから、救い主があなたを救ってくださるという神の約束の中で休みなさい。救い主があなたのために、あなたの代わりに神が求める基準満たしてくださったのだから。
ガラテヤ人への手紙2章16節には「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」とあります。
先ほど、旧約聖書の律法で罪の罰は死であり、律法によると、イスラエルの人々はその人の罪の代わりに傷のない子羊を身代わりにささげなければならなかったと言いました。罪のない完全な救い主であるイエス・キリストは、あなたと私が受けるべきだった罰を代わりに受け、死にました。しかしここで話が終わったわけではありません。罪のない救い主が罪人の代わりに死んでから3日後、神の子イエスは死からよみがえり、救い主は罪と死に打ち勝つ力があることを証明されました。
コリント人への手紙 第二 5章21節「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
もし私たちが救い主イエスを信じ、私たちのためにイエスが十字架で死んでよみがえれたことを信じるなら、第1ヨハネの手紙1章8-9節に書かれている様に、「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」つまり、自分には罪があること、自分の努力で罪から救うことが出来ないことを認め、イエス・キリストが自分の罪を代わりに受けてくださったと信じる者はすべて、神はその人の罪を赦してくださるのです。そして、神がその人を見るとき、その人の罪を見るのではなく、キリストの完全な業がその人を覆っているので、その人をキリストによって義とされた者として見るのです。このことを神学用語で「義認」と言いますが、簡単に言うと「義とされる」ことです。つまり、無罪と宣言されること、あるいは正しいとみなされるということです。これが福音であり、素晴らしい知らせなのです。
罪のない救い主であるイエスの完全な業を信じる者は全て、罪の罰、律法の要求から解放されるのです。
使徒パウロは、ガラテヤの教会に手紙を書き、これらのことを彼らに思い出させようとしました。なぜなら、パウロがいなくなった後、偽教師たちが教会に入ってきて、彼ら(偽教師たち)はガラテヤの人々に、「あなたたちは律法の罰から自由ではなく、神と他の人々から認められたいなら、まだ律法をすべて守る義務があると言っていたからです。偽教師たちの本当の動機は、周りの人たちから認められ、注目されたいということでした。彼らは、実際に神に喜ばれる人生を送ることよりも、周りに対して自分が神に喜ばれているように見せたり、振る舞ったりすることに関心があっただけでした。
先ほど私は、「ガラテヤ地方のクリスチャンたちは、何故いとも簡単に『人は信仰によって救われる』というパウロが伝えた真実から、『律法を守る、行いによる救い』に移ってしまったのでしょうか?」と問いました。この問いに対する答えはこうです。私たちは、たとえ罪が赦されたとしても、罪に従いたいという誘惑から、神の御心に背いてしまいます。また、私たちは、他の人から罪を受け、それが誘惑につながる場合もあるのです。私たちは思い上がって、自分の力で自分の周りにある罪に対抗できると勘違いしがちです。キリストを救い主として信じて救われた者でさえ、たとえそう認めたくなくても、このような考えに陥ってしまうのです。実は、私たちは、クリスチャンだろうが、クリスチャンでなかろうが、自分の罪深さから自分を救うために、何もすることができません。私たちは自分の力で、神に喜ばれる人生を送ることができないのです。私たちが罪から救われるために、律法を完璧に守ることが出来た救い主の完璧な業が必要だった様に、私たちは、罪の誘惑に負けないように、神に助けてもらう必要があるのです。偽教師たちは、「救い」と「聖化」を混同していました。「救い」は、神が、イエスを救い主として信じた者が、イエスのゆえに罪を赦され、神がその者を罪のない者、すなわち、義と認めることです。そして、「聖化」とは、キリストを信じて救われた者が、神と神の言葉(聖書)に対する理解を深め、神の助けによって罪の誘惑に抵抗することができる様に、成長するための継続的なプロセスです。私たちの罪深いプライドからすると、信仰による恵みによって救われることは、あまりにも簡単なことのように思えます。というのも、私たちは、自分の努力で信仰を貫くことで、神様にもっと認めてもらおうと考えてしまうからです。私たちは、神の恵みと神の力によって、罪から救われるのです。そして私たちはただ神の力によってのみ、クリスチャンとしての人生を生き抜くことができるのです。
パウロはガラテヤ人への手紙の中で、クリスチャンである信者に対して、神に喜ばれるための人間的な努力を拒否し、キリストが既に自分の罪の支払いをしてくださったことにより与えられた自由の中で、罪に反抗する事が出来るよう神に頼り、本当に神に喜ばれる人生を送るようにと、励まし勧めています。
日本人のあるサラリーマンを想像してみてください。彼は会社のために長時間働き、仕事が終わると義理で上司や同僚と一緒に夕食や飲み会に出かけることを苦痛に感じています。このサラリーマンは、もっと家でゆっくり過ごしたいと思いながらも、義務の大切さを感じているからこそ、毎日、毎週、長時間勤務し、そして仕事が終わると同僚と一緒に出かけるのでしょう。しかし、もしある日、新しいオーナーが会社を買収し、新しい経営者が従業員に、「会社での仕事は以前より楽になります。社員全員が9時から5時まで働けばよくなり、一日の終わりには自由に家に帰れます。」と発表したとしたらどうでしょう。このサラリーマンは、夜遅くまで長時間働いて、同僚や上司と食事や飲みに行かなければならないという義務から解放されたのです。もし、このサラリーマンがそれでも以前の様に自分の体と心に鞭打って夜遅くまで働き、さらに外で飲み続けるとしたら、彼は与えられた自由の中で生きているのではなく、まるで自分が長い間解放されたいと願っていた義務の下にまだいるように生きていることになります。
ガラテヤ人への手紙5章16-25節でパウロはこの様に言っています。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」
パウロはガラテヤの信徒たちに、御霊によって歩む(生きる)ことを求め、御霊、すなわち神の力によって歩むなら、肉、すなわち罪深い欲望、罪への誘惑を満足させたり養ったりすることはない、と言っています。パウロは更に、罪の内に歩む時に生み出されるものと、聖霊によって歩む人生から生まれるものを比較しています。これらの御霊の実は、キリストを信じて自由にされた者を通して、神ご自身の性質を見ることができるものです。
愛: 神は完全な愛であり、私たちは、神が私たちを愛してくださるように、他人を愛するよう召されています。
喜び:神は私たちの喜びの源です。喜びとは、神を信じる者の楽しみであり、神が与えてくださったすべてのものへの満足があります。満たされた心。
平和: 説明できないほどの神への安らぎと幸福の感覚です
寛容:ある作家は忍耐すなわち寛容をこのように表現しています。「苦痛を伴う状況でも、それを受け入れる静かな意志」
親切、善意: 道徳的に優れていること。
誠実: 信頼性。
柔和: 統制された力。
自制:不適切な欲望、言動に抵抗する能力。
パウロは、御霊の実を列挙したとき、また、この節の最後にこう言って、ガラテヤの信徒たちにキリストにある自由を思い起こさせています。「…このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。」(ガラテヤ人への手紙5章23b-25節) 私たちが自分の力で神に受け入れられるようとする努力は決してうまくいきません。私たちがキリストによって与えられた自由に生きるとき、初めて神に喜ばれる人生を送ることができるのです。キリストは私たちの完全に罪のない救い主であり、私たちの人間的な「行い」である重荷を捨てて、私たちのために完成された救いの業に信頼するよう招いておられます。それは私たちが、与えられた自由の中で神に信頼し、平安のうちに過ごすためです。
最後に一つのイラストレーションを話して終わりたいと思います。私たちの考えや態度をコンロの上にあるヤカンに入った水だと想像してみてください。人生における試練、誘惑、様々な状況、苛立ちなどを、コンロの火とします。今、二つの異なる種類の茶葉があると想像してみて下さい。一つの種類の茶葉の名前は「罪の実」です。そしてもう一つの茶葉の名前は「御霊の実」です。この二つの茶葉はそれぞれどの様な香りでしょうか。一つは苦く腐った様な匂いがして、もう一つは、なんとも言えない良い甘い匂いがします。それらの茶葉をそれぞれのコップに入れます。そして人生の試練の火で熱せられた自分の考えや態度のお湯が注ぎ込まれます。想像してみてください。あなたは、あなたの人生で、どちらのお茶を入れていますか?どちらの種類の実をあなたの人生で育てていますか?それは苦く腐った匂いを放っていますか?それともあなたの人生は甘く良い匂いですか?人生で思いがけない試練が起きた時、あなたはどの様に反応しますか?あなたは肉(罪)によってあなたの人生を歩んでいますか?それとも御霊によって、すなわち、キリストによって与えられた自由によって歩んでいますか?