「祈りの意味」

Message by Pastor Samuel Kim
日本語訳:クロガー潤子

July 10, 2022

マタイ7章9〜11節

(ハイデルベルク問答集問26)

皆さんは、祈ることができないほどの辛い経験をしたことがありますか?私たちは痛みや困難が洪水の様に押し寄せてくるとき、どうやって祈ることができるのでしょうか。

私は16年前、フィリピンの伝道先で大きな交通事故に遭い、半年間入院したことがあります。脳外科手術3回、整形外科手術1回を含む、計5回の手術を受け、1ヶ月間はICUに入院しました。その1カ月間は意識のない状態で、私はその期間の記憶はありません。私の意識が戻った時、自分の頭やお腹、足には、手術の跡があって、包帯が巻かれていました。病院のベッドで、私は自分のその様な姿を見た時、ショックを受けました。しかも、右半身全体が麻痺しており、自分の力では全く動くことができませんでした。脳外科手術で脳が完全に治ったわけではありませんが、それよりも私の外見の傷は酷いものでした。なぜ、神は私にこのような痛みを与えたのか、私には全く理解できませんでした。私の心は怒りにあふれ、この入院生活の間、私は祈ることが出来ませんでした。神への失望や、神に見捨てられたという思いによって、神に祈るということがとても困難でした。

人は「誤解」が原因で周りの人との人間関係が崩れてしまうということがよくあります。周りの人や、家族の間、教会のメンバーの間、あるいはどんな組織においても、これが人間関係を壊す原因となっています。

私たちは、自分の願いを拒否されて、動揺、或いは落ち込んでしまったことが何度もあるのではないでしょうか。何かを願い祈った後で、自分の願いと異なる結果になったら、私たちは落胆するのです。反対にこちらが良かれと思ってやったことが、相手に伝わらなかったという事もあると思います。

母と娘の間でこの様な会話を聞くことがあるかもしれません。

「お母さん、新しい携帯(iPhone)が欲しいんだけど。」「え?新しいの買ってから1年も経ってないじゃない?」「うん、でもクラスのみんなは最近出たiPhoneを持ってるの。」「今持っているのをもう1年使ったら、また考えようね。」娘はがっかりしてこう答えます。「お母さんは私のこと大切に思っていない。私よりもお金が大事なんだ。」

この娘の態度に母は心を傷めるでしょう。他にも子供が親の心を理解せず、傷つける言葉があります。

「お父さんやお母さんの考えは古すぎて私を理解できない。昔と今は変わったんだよ。」「この家ではあなた(たち)のせいで私には自由が全くない。」

「誤解」の大きな特徴は、非難、怒り、恨みの存在です。一人では解決できない問題を抱えており、さらに自分が願う通りの解決が得られない時に、これらの感情は生じます。「誤解」は現代社会にだけではなく、1世紀のユダヤ人社会の人々の間でも起きていました。

今日の箇所は、イエスが弟子たちやイエスに従う群衆に対して教えた後半に位置しています。イエスの教えの意図は、神と神の国についての深い理解を与えることでしたが、聴衆のほとんどがそれを誤解していました。それは彼らの祖先によって、神と祈りに関する間違った考えが定着してしまった為でした。その結果イスラエルの民は400年もの間神の声を聞くことができず、約束のメシアの到来を示すものもありませんでした。神の業も見えず、絶望し、挫折し、無力になっていました。

今日の箇所で、イエスは、弟子たちと山までついてきた群衆に話しておられます。群衆は、健康で元気な人たちだけでなく、ほとんどが困っている人や病気の人たちでした。病人を癒す権威と力を持ったメシア(救世主)と思われる人が現れた、という知らせは、人から人へと広がっていきました。貧しい人、病気の人、弱い人、社会的に疎外されている女性や子供たちが皆、彼に従って来ました。彼らの多くが「神が自分たちを見放された」と思っているような人たちでした。

弟子たちはいつもイエスと共に過ごし、教えを受けていたので、イエスと神とその王国について、良く理解していたはずの人たちでした。しかし彼らでさえもイエスに対して正しく理解していませんでした。彼らは、イエスが実際にローマ帝国からユダヤ人を解放し、政治的な王国を建設するメシアとして、イエスを見ていました。彼らの興味は、終わりの日(当時のローマ帝国が終わり、イエスが王となる新しい政権の時代の始まり)が来たときに得るだろう特権に集中し、誰が一番偉いか、誰が一番イエスに近いかという議論をいつもしていました。

人々の中で祈りの生活が欠けていたのは、貧困と辛い病気、そして将来への希望がなかったことで彼らが疲れ切っていたからです。

この箇所の主題は、7-8節の続きで、イエスは人々に希望を与えておられます。その主なメッセージは、「祈りは必ず答えられるから、祈り続けなさい。」というものです。イエスはそのことを、3つの動詞で示されました。(「求めなさい」、「探しなさい」、「たたきなさい」) なぜなら神は私たちに最善を与えようと望んでおられる父だからです。

人々は失望し、疲れていたかもしれませんが、イエスは祈りの源である神と私たちの関係(父と子としての関係)に焦点を当て、彼らを励ましているのです。

9節 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。

10節 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。

11節 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

先ほども言いましたが、多くの人が祈る生活をやめてしてしまうのは、自分の願う祈りの答えが見えなかったり、非現実的に感じたり、あるいは不可能に思うことによって、イエスが教える、「神が祈りに答えて下さる」ことを信じることが出来ないからかもしれません。しかし、9-10節は、父と子としての神と神の民の関係に焦点を当てた、この箇所の教えの核心部分です。ここでは、神は良いものを与え、私たちにとって何が最善であるかを知っている方として示されているのが分かります。またイエスは、完璧ではなく罪を持っているにしても、自分の子供たちに良いものを与えたいと願う人間の父親との比較もされています。

私が子供の頃、焼き鳥を食べさせてもらったことを思い出します。80年代前半はそれはとても贅沢なことでした。父と母は「お腹が空いていないから」と最後に食べ、私と妹が一番おいしいところを食べられるように待っていたのです。大人になってから気づいたのですが、父と母はお腹が空いていたけれども、私たちに最高の物を食べさせてあげられるという喜びから、自分達が食べるのを待っていたのです。もし、悪い父親が息子に良い贈り物をすることができるなら、完全な父親である神が与える望みはどれほど大きいことでしょう。そして、このことが祈りの生活の基本的な理由であるはずです。

ハイデルベルク・カテキズムの第9主日、問26で、どの様に父である神の理解が幅広く詳細に表現されているか見てみましょう。ハイデルベルク・カテキズムとは、聖書に基づいて、キリスト教信仰の核心を問答形式でまとめた改革派告解文書です。主日9のカテキズムの問答26は、神がどの様な方であるかが詳しく、そして分かりやすく説明がされています。

26「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか?

わたしは次のことを信じているのです。

わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを

神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました 。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです

その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。

神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを

また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、益に 変えて下さることを

神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし 、信頼できるお父さんですから、喜んで、これをしてくださるのです

私たちの神は、木や石でできた神ではありません。また、私たちの願いを聞くことができないほど遠くにいるわけでもなく、私たちを罰するためにいつも怒って私たちの欠点を探しているわけでもありません。私たちの神は、生まれたばかりの子供の声に全神経を集中させる父親のように、私たちの静かな小さな声さえも聞いてくださるのです。

私たちが信じている神は、次のように説明されています。

1) 神は創造主であり、被造物を摂理的に維持し治めておられる。

2) 神は、あなたの人生を良いものにするために、摂理的に働いておられる。

3) 神は必要なものをすべて与えてくださる。

4) 神は私たちの痛みさえも益に変えてくださる。

5) 全能の神は私たちの神であるから、私たちの父として忠実である。

私たちが信じている神が全能であり、忠実な愛の父であることを知ることは、私たちの心と魂に慰めを与え、力と自信を与えてくれます。このカテキズムは、これらの真理を聖書に基づいて書かれています。

私たちの救いを計画し、その意志を示してくださったのは神です。

私たち全ての人が罪のある者となったとき、率先して私たちを救い出そうとしてくださったのは神です。

神は、御子をこの世に送り、私たちの罪のための犠牲とされました。

そして、私たちに希望を与えるために、罪に打ち勝って御子を復活させた方です。

私たちが福音を聞くことができるように、人を私たちの人生に遣わされたのも神です。あなたに初めて救いのメッセージを伝えた人は誰でしたか?思い出してみて下さい。

私たちが福音を聞いたとき、信じることができるようにと、私たちを導いてくださったのは神です。

神は、ご自分の子供である私たちと一緒にいることを楽しんでおられます。

そして今、すべての理解しがたい状況さえも良い方向に働かせることによって、最高の贈り物をしたいと願っておられる方です。

神は全能であり、忠実な父です。

私たちは、たとえ状況が不利であっても、確信を持って祈ることができます。なぜなら、私たちは主を信じ、主が恵み深く、全能で、善のために働いてくださる忠実な父であることを知っているからです。

ある大学を卒業したばかりの息子を持つ家族がいました。

その息子の実家の町は小さな田舎町なので、彼は一番大きな町へ行くために荷物をまとめました。

彼が出発するとき、父親は「困難な状況に直面したときは、いつでもこれを開いて読みなさい」と聖書を渡しました。彼は(父がお金ではなく聖書を渡したので)少しがっかりしました。母親はお金を入れた封筒を彼に渡しました。大都会に来た彼は、レストランや宅配会社で働き、さらに自分のビジネスを始めましたが、物事は彼の思い通りにいきませんでした。経済的に追い詰められた彼は、故郷に助けを求める手紙を書きました。彼が受け取った返事にはただ、「聖書を読みなさい」と書いてありました。しかし、彼にとっては、それがバカバカしく思えて、真剣に受け止めませんでした。彼はアパートを追い出され、地下の小さな部屋に住むことになってしまいました。ある日、人生に疲れた彼は、公園へ行きました。ピクニックに来た家族連れにとっては最高の天気の良い日でしたが、彼にとっては何の幸せも感じませんでした。ただ、心配と不満で一杯でした。公園にいた家族の父親が、息子と一緒に遊んでいるのを見て、彼は子供の頃、父親が自分の手を取って教会に連れて行ってくれたのを思い出しました。そこで、彼は父が渡してくれた聖書を読んでみることにしました。すると、聖書の1ページに大金が書かれた小切手が貼ってありました。父の本当の愛と意思を知ったとき、彼の両親へ誤解と怒りが解けていきました。

神がどのような方なのかを理解することで、自信を持って祈ることができるようになります。そして、このメッセージの冒頭でお伝えした、あの大事故の後に私が祈ることを再開できたのも、このことが鍵でした。半年間の入院期間中、私はほとんど神に祈ることはありませんでした。しかし、私の神に対する誤解は、ある出来事で解決しました。韓国での最後の脳外科手術が終わり、私は退院する予定でした。しかし、右半身が麻痺して動かなくなり、指さえも自由に動かせなくなったのです。そんな中、絶望の淵に立たされた私は、神に立ち返りました。それは、悲鳴でした。”もし、私の体を回復してくださるなら、私は一生、あなたのしもべになります。”この告白は最終日に捧げられ、その後、私は退院しました。そして退院後の最初の日曜日、私は父の助けを借りて地下鉄に乗りました。ふと指を動かしたくなり、指を動かそうとした途端、突然右手の指が少し動くようになったのです。その時私は地下鉄の中でこの奇跡を体験し激しく泣きました。今日、私は主のしもべとして生きているのです。半年間動かなかった指が動くようになったのですから、奇跡としか言いようがありません。本当にすごいことだと思いませんか!?私自身、神が私を呼んでいると感じた瞬間でした。その後、完全な回復には時間がかかり、痛みもありましたが、天の父は私を忘れてはいないのだと確信しました。

主は、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」と言われます。

祈りましょう。

全能で忠実な父なる神様、あなたの大きな憐れみを感謝します。私たちがあなたを誤解し、怒りや非難で、あなたが私たちの事を愛し大切に思っているのにそれを無視し、知らないふりをしていても、憐れみを持って私たちを辛抱強く待ってくださっていることを感謝します。

私たちが心謙り、あなたを信頼し、あなたの限りない愛と憐れみと、その優しさの内で安らぐことができるように助けてください。イエスの御名によって祈ります。アーメン

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